3月4日、成田空港を出発した。

新しい生活が始まるのを不安に思っていたあのとき。
未来の駒を一つ進め、選択し、これからの選択肢をまた一つ狭めたと感じて少し後悔もしていたのに。

次の週に起こった地震
それを知ったのは、こちらの時間で朝の8時過ぎだった。

はじめは、家族の安否確認。
兄弟のことを話し、みんな無事だったことを知った。
そして次にしたのは友達へのメール。
東京の友人たちは、電車の運転停止のため家に帰れず会社に泊まったり、
親戚の家に泊まるため5時間も歩いたりしていた。
命は無事だったけど、こんな災害に遭遇したことがなかったから、みんな戸惑っていた。
「怖い。」
その言葉が、私をも不安にさせた。
その日から友達の家も幾度かの余震に会っていたようだ。
私も連日報道されるこちらのニュースを数日は齧りつくように見ていた。
でも、、
今はもう見れない。
被災した映像があまりにショックで。
日本に住んでいたとき、これほどまでの規模の天災を日本で見たことはなかったけれど、
幾度かひどい地震をテレビで見てきた。

そのときには感じなかったものを今感じている。
それは被害が最悪というだけでなく、自分が日本にいないということで感じる
•••罪悪感•••だろうか。

自分の中で、この災害を共有できない罪悪感がある。
自分だけ、何も共有していない。
だから友達への連絡も最初の安否確認以降できないでいる。
私のメールが負担にならないだろうか。
帰ってくる不安の声を、私が耐えられないということ。
私もカテゴライズできないこの不安が怖くてたまらない。

私自身、今まで何不自由なく生きてきて、今も毎日食事に食後のおやつまで準備してくれる家がある。
言葉の壁はあり、何にというわけでもないけど異文化での生活にストレスを感じることはあるけど、
それは消化の範囲内だ。
友人たち、そして直接被災していない家族たちの不安の声を聞くだけで、
私も言いようの無い不安に襲われる。

その気持ちを話せる人も今の場所にはいない。
もちろん、この会う人々に連日ニュースのことを話され、家族の心配をしてもらって、
お礼を言うけど、私はお礼を言えるほどの境遇にいない。
だって、日本に今現在住んでいないんだから。

だれかが言った。
今日本からこの国に行く飛行機のチケットは50万円もすると。
普段は安めのチケットで10万円なのに。
みんな逃げたがっていると言うのを聞いて、私はさらに落ち込んだ。
こちらのニュースでそう報道されたが、それらの真偽は確かめていない。
自分は今この国にいる。

その不安で時々押しつぶされそうになる。
それを忘れたくて、テレビを見なかったり、家族との電話でも地震の話題を避けたりしている。
苦しくなるから。